嶋 清一
海 草 中 (和歌山) |
甲子園の大会史上初めて5試合連続完封の全国制覇を果たし、しかも甲子園史上唯一となる、準決勝・決勝の2試合連続ノーヒットノーランを達成。戦前の名投手の中でもひときわ輝いた「伝説の大投手」が海草中の嶋清一である。
常勝・中京商の壁
旧制中学1年(昭和10年)の夏に一塁手として甲子園の土を踏み、翌年から投手に転向する。3年(昭和12年)の夏に投手として甲子園初出場。2回戦から登場し、徳島商を完封1対0、準々決勝の北海中には13対1で大勝、準決勝で中京商(愛知)の鉄腕・野口二郎投手と投げ合い1対3で敗退するが、以後5季連続で甲子園出場を果たすことになる。13年春は初戦の撫養中(現・鳴門高=徳島)を1安打完封4対0で勝利した後、再び中京商と対戦するが今度は野口投手にノーヒットノーランを喫し0対4で敗退した。13年夏は初戦の平安中(京都)で終盤制球を乱し、まさかの逆転サヨナラ負け、翌14年春の選抜は開幕戦で三たび中京商の前に初戦敗退している。
史上初の5試合連続完封、2試合連続ノーヒットノーラン
最終学年時の昭和14年の夏の選手権大会では、主将・4番・エースとして大活躍し、完璧な投球内容で悲願の初優勝を果たすことになる。まず初戦の嘉義中(台湾)を15奪三振3安打完封で5対0と勝利すると、続く2回戦は、京都商・中尾硯志(巨人)に投げ勝ち2安打完封、5対0でこれまた快勝。準々決勝では、土井垣武(阪神→毎日→東映→阪急)・長谷川善三(南海→阪神→西鉄→毎日→高橋)のいた米子中(鳥取)を3安打完封、3対0で勝ち上がった。準決勝の島田商(静岡)戦では17奪三振ノーヒットノーランの快投、一言多十(セネタース)を打って8対0と大勝して一気に決勝進出を決めた。
▼昭和14年選手権大会・1回戦 (嘉義)酒見 (海草)嶋清一
嘉義中 000 000 000=0
海草中 000 021 11X=5
▼昭和14年選手権大会・2回戦 (海草)嶋清一 (京都)神田
海草中 210 000 200=5
京都商 000 000 000=0
▼昭和14年選手権大会・準々決勝 (米子)田中 (海草)嶋清一
米子中 000 000 000=0
海草中 001 200 00X=3
▼昭和14年選手権大会・準決勝 (島田)一言多十 (海草)嶋清一
島田商 000 000 000=0
海草中 401 000 30X=8
迎えた決勝の下関商(山口)戦では、甲子園史上唯一の「2試合連続ノーヒットノーラン」を達成、5対0の完勝で締めくくったのである。この試合、出した2四球の走者をいずれも塁上で刺しており、27人斬りの「完全」な投球内容は見事のひとことだった。
▼昭和14年選手権大会・決勝 (海草)嶋清一 (下関)友浦只雄
海草中 002 000 201=5
下関商 000 000 000=0 ※海草中は初優勝。
松坂大輔の偉業は59年後
この夏の選手権で登板した5試合の通算投球内容が凄い。投球イニング合計45、被安打合計8、奪三振57。「5試合連続完封」と「連続45回無失点」は、昭和23年に福島一雄(小倉)が達成するまで、決勝戦でのノーヒットノーランに至っては59年後の平成10年に松坂大輔(横浜)が達成するまで、史上唯一の大記録だった。
剛球伝説と一瞬の青春
学生野球の父といわれた飛田穂洲氏は、昭和14年夏の嶋のピッチングを「天魔鬼神に等しい快投」と評した。野球記者の草分け、太田四州氏は「峻烈の剛球」「永く眼底に残る、後世の語り草」と賞讃した。しかし、不世出の名投手の未来は戦争によって奪われる。18年に明治大学に進学後、同年12月に学徒動員で海軍に召集され、戦地に赴くと、終戦5カ月前の昭和20年3月29日、シンガポールから護衛船でベトナム海岸線付近を北上中に、米国の潜水艦に魚雷攻撃され戦死。24歳の若者の一瞬の青春は伝説となり、後世に語り継がれることになった。
甲子園での投手成績
大 会 | スコア | 対戦相手_ | 備 考 |
昭和12年夏 | 2回戦 | ◎01-0_ | 徳島商 | 完封勝利(1):3安打8奪三振 |
| 準々決勝 | ○13-1 | 北海中 | 完投勝利:8安打10奪三振 |
| 準決勝 | ●01-3 | 中京商* | 完投:5安打4奪三振 |
昭和13年春 | 2回戦 | ◎04-0 | 撫養中 | 完封勝利(2):1安打11奪三振 |
| 準々決勝 | ●00-4 | 中京商* | 完投:7安打8奪三振 (中京商野口が無安打無得点) |
昭和13年夏 | 1回戦 | ●05-6 | 平安中 | 嶋-松井-嶋 (逆転サヨナラ負け) |
昭和14年春 | 1回戦 | ●02-7 | 中京商* | 完投:5安打3奪三振 |
昭和14年夏 | 1回戦 | ◎05-0 | 嘉義中 | 完封勝利(3):3安打15奪三振 |
| 2回戦 | ◎05-0 | 京都商 | 完封勝利(4):2安打8奪三振 |
| 準々決勝 | ◎03-0 | 米子中 | 完封勝利(5):3安打9奪三振 |
| 準決勝 | ◎08-0 | 島田商 | 完封勝利(6):【ノーヒットノーラン】17奪三振 |
| 決_勝 | ◎05-0 | 下関商 | 完封勝利(7):【ノーヒットノーラン】8奪三振 |
嶋清一投手に関わった主な野球人
杉浦_清‥ | 当時の海草中指導者。剛速球投手だが、生来が優しく、重圧に弱い嶋清一の性格を見抜き、放任主義の指導が功を奏したと言われる。現役時代は中京商3連覇のときの遊撃手で、明大在学中の昭和13年夏に海草中コーチで甲子園出場。明大で4連覇を達成後、海草中に戻り指導を再開。嶋、真田を率いて全国制覇。終戦後の21年に32歳でプロ入り。中部日本(中日)の遊撃手兼監督。現役引退から10年後の38年から再び中日監督。 | 真田重蔵‥ | 海草中時代の後輩。嶋の後を継いでエースとなりチームを夏の選手権大会連覇に導いた。プロ入りして朝日・松竹・阪神などで投手として活躍。通算178勝、昭和25年にセ・リーグ記録の39勝で最多勝、ノーヒットノーラン2回。その後、明星(大阪)の監督となり38年夏の選手権大会で和田徹(阪神→南海)らを擁して全国制覇を達成。 | 西本幸雄‥ | 和歌山中時代に嶋清一の海草中と対戦している。のちに大毎・阪急・近鉄でリーグ優勝8回、通算勝星1384勝(1163敗)を数えた名将。プロ野球3球団で胴上げ監督になっているのは西本と三原脩(巨人・西鉄・大洋)だけ。 | 蔦_文也‥ | 当時の徳島商エース。夏の甲子園で優勝後の海草中と練習試合で対戦して勝利している。昭和25年にプロ入り。投手として東急に入団も1年で退団。翌年、社会科教諭として池田高に赴任して野球部監督。57、58年の夏春連覇を含め優勝3回・準優勝2回。甲子園通算37勝(11敗)は歴代6位。 |
|
昭和10年夏=2回戦(一塁手) 昭和12年夏=ベスト4 昭和13年春=ベスト8 昭和13年夏=1回戦 昭和14年春=1回戦 昭和14年夏=優 勝 (5試合連続完封=史上初) (45イニング無失点=史上初) (対島田商=ノーヒットノーラン) (対下関商=ノーヒットノーラン) ※決勝での記録達成は史上初 ※2試合連続は甲子園史上唯一
甲子園通算成績 8勝4敗 (中京商に3敗) 7完封 選_抜1勝2敗 選手権7勝2敗
明大 戦前の明大野球部最後の主将 ベトナム沖で戦死 (昭和20年没)
平成20年に野球殿堂入り |